歴史のお話
世界と、さくらんぼ。
人類は、はるか有史以前からさくらんぼを食べていました。
原産地は西南アジア地域、現在のトルコのあたりと推定され、自然の中で自生していたさくらんぼを頬張っていたようです。
ちなみに現・トルコ共和国のギレスン市と、日本を代表するさくらんぼ産地の山形県・寒河江市【さがえし】は、さくらんぼ姉妹都市として協定を結んでいます。
さくらんぼは次第に生育エリアを広げ、ヨーロッパ各地へ広まります。
栽培が始まったのもかなり昔で、ヨーロッパでは紀元前から栽培されていたようです。ヨーロッパにさくらんぼを伝えたとされているのが、古代ローマ帝国の執政官・ルクッルスという人。彼は紀元前65年頃に戦争で現在のトルコへ遠征しました。どうやらそこでさくらんぼに出会い、すっかり惚れ込んで、ローマへ持ち帰ったらしいのです。
ルクッルスは美食家としても知られる人でした。
以来、長い時をまたいで品種改良が進み、17世紀にはアメリカ大陸へも広まっていきます。アメリカで栽培が盛んになったのは18世紀以降のようですが、じつはすでに日本では平安時代の書である「本草和名」にさくらんぼの記述が見られます。それは中国産のさくらんぼだったようです。
江戸時代の初期にも一度、中国からさくらんぼが入ってきたことが分かっています。けれども日本の気候風土に合わなかったのでしょうか、普及することはなかったようです。
日本と、さくらんぼ。
日本に根付くことになるさくらんぼは、明治時代にやってきます。明治元年の1868年、まずはプロシャ(現ドイツ)の商人のリヒャルト・ガルトネルという人が、北海道に苗木を植えて西洋農法を指導しました。
そしてその後、北海道の開拓者たちがアメリカから25種類の苗木を輸入して、東京で育てて全国へ配りました。
最初の苗木はセイヨウミザクラ(西洋実桜)というヨーロッパ系のものでしたが、その栽培がうまくいかなくて、アメリカから品種改良された苗木を輸入したようです。アメリカから輸入した品種は日本の気候風土に合ったのか、根付いて定着するようになりました。
その中には現在も人気のナポレオン(これは佐藤錦の親にあたる品種です)や、高砂といった品種もあったとされています。
ここでひとつ、知っておくべきことがあります。
それは、欧米から日本へさくらんぼが輸入されて150年以上たつものの、長いあいだ生食用のさくらんぼは一般的なものではなかったということです。速やかな物流ができなかったこともあり、長く加工用・缶詰用のさくらんぼを栽培することが主流でした。
人々にとって生食用のさくらんぼが当たり前になるのは、じつに昭和60年代(1985年以降)だったようです。それまでは加工されたものや缶詰に入ったものを食べるほうが一般的だったのです。
山形県と、さくらんぼ。
日本で一番のさくらんぼ産地は山形県ですが、その山形県でさくらんぼの栽培が始まったのは明治8年(1875年)のことでした。アメリカ輸入の品種を育てていた東京から、苗木が届いたのです。
さくらんぼの育成が全国的に試みられる中で、実をならせることに成功したのは山形県とその周辺だけであったと言われます。
翌・明治9年(1876年)になると、山形の初代県令(県令とは現在の知事のことです)になった三島通庸という人が、北海道から苗木をとり寄せます。
同じ年に、現在では県内随一のさくらんぼ産地として知られる寒河江市でも、井上勘兵衛という人が北海道から苗木をとり寄せました(この人はさくらんぼの缶詰加工を成功させた第一人者です)。
そして明治11年(1878年)、三島さんは栽培のために県の試験場を設置。寒河江市でも明治21年(1888年)に、本多成允という人が中心になって郡立の試験場を設置しました。
県の試験場や、寒河江市の試験場ができたことで、現地の栽培適性試験や栽培方法の研究が本格化します。そして、自信を深めたのです。山形で栽培するさくらんぼは、真っ赤な実をつけて立派に育つんだと。
それと共に、販売網も拡大します。県外出荷が増え、栽培面積も増えていきました。
さくらんぼの、イノベーション。
年号は変わって、大正11年(1922年)。日本のさくらんぼシーンにイノベーションが起こります。それはズバリ、現在のトップブランド「佐藤錦」の誕生。山形県・東根市の佐藤栄助という人が生みの親でした。
佐藤さんの胸にあったのは、日持ちがよくて甘みにも優れた生食用のさくらんぼを、関東などの県外へ出荷したいという志と情熱。
創意工夫を重ねた佐藤さんは、酸味が強いけれど日持ちがよく缶詰用に適していた「ナポレオン」と、日持ちはよくないけれど味の良い「黄玉」という品種をかけ合わせます。これが見事に当たったのです。
佐藤錦の登場は、缶詰用が主流だったさくらんぼ市場を生食用の市場へと変えていく起点になりました。もちろんすぐにそうはなりません。
しかし、確実に、さくらんぼが初夏の生食用のフルーツとして、全国区の存在になっていく扉を開いたのです。やがて昭和60年代(1985年以降)になると、さくらんぼを生食で楽しむ日常が定着。
それと共にさくらんぼの品質への意識も高まり、昭和の終わりから平成にかけては様々な品種が生まれてきます。
「南陽」「紅さやか」「紅秀峰」「紅てまり」等々です。佐藤錦こそ、さくらんぼの世界を進化させた原点でした。
ところでその佐藤錦には、“生みの親”だけでなく“育ての親”もいました。原木から苗木を普及させた、苗木商の岡田東作という人です。
この岡田さんと佐藤さんの間にはちょっとした逸話が残っています。じつは佐藤さんは当初、この新しいさくらんぼに「出羽錦」という名前を考えていたそうです。それを聞いた岡田さんが「あなたの名前になさい。佐藤錦にされては?」というような感じで提案したらしい。
開発したさくらんぼをふたりで食した時に、「砂糖のように甘い」と喜び合ったことにも由来しているそうですが、なんとなく心の温まる話だとは思いませんか?
産地のお話
圧倒的な生産量をマークする、山形。
日本のさくらんぼ生産量の都道府県ランキングを見ると、トップ3には山形県、山梨県、北海道が名を連ねます。その中で圧倒的なシェアをもち、不動の1位であり続けているのが山形県です。
2018年のデータで見ると、日本全国での合計生産量は1万8100トン。そのうち1万4200トンが山形県で、じつに78.45%を占めています。
山形県はなぜこれほどまでの、日本一のさくらんぼ産地になり得ているのでしょうか。その答えのヒントは、「山形」という県名自体にあったりします。
「山」の「形」と書くように、山形県は山がとても多い地域。日本百名山に数えられる山々に囲まれていて、多くの盆地が点在しています。
そのような地形と、そのような地形ならではの気候特性が、さくらんぼの栽培と抜群の相性なのです。
四方の山々に、感謝です。
じつのところ、明治維新後のさくらんぼ栽培の黎明期において、山形県とその周辺以外のほとんどの地域では栽培に失敗してしまったという歴史がありました。
そしてその主な要因は、梅雨や台風による被害でした。
収穫期に合わせたかのように襲ってくる梅雨は、やっとみのった実を割ってしまいかねない難敵。
台風で吹き荒ぶ強風は、風に弱いさくらんぼの樹にはこの上ない大敵。けれども、盆地の多い山形県では、四方の山々が護ってくれるおかげで梅雨期に降り注ぐ雨量が少ない。台風被害も少ない。
だからこそさくらんぼの栽培適地になり得たのです。なんだか山の神様が味方してくれているような話ですね。
しかしそれだけではありません。山々に囲まれた盆地特有の、気温の日較差も年較差も大きいという気候の特徴。
さくらんぼを美味しく育てるには、これも非常に大事な点なのです。
さくらんぼ栽培には豊かな水源/水はけのいい土壌/気温/日差しが欠かせませんが、1日の中での昼夜の温度差が大きいことと、夏はしっかりと暑く・冬はしっかりと寒くて雪の降ることが、甘くて美味しい山形産ならではの実をならせるのですね。
1日の中でも、四季を通じた1年の中でも、メリハリのついた気温変化に恵まれている気候特性。その中でこそ、日本一のさくらんぼは健やかに育ちます。